コンテンツへスキップ

カート

カートが空です

記事: インディアンジュエリーとは何か?― 迫害から生まれた“生きるための芸術”

インディアンジュエリーとは何か?― 迫害から生まれた“生きるための芸術”

インディアンジュエリーとは?

インディアンジュエリーとは、アメリカ南西部の先住民、特にナバホ族・ズニ族・ホピ族が伝統的に制作してきた銀細工のジュエリーを指します。

その特徴は、単なる装飾品にとどまらない“意味のあるデザイン”と、生きるために技術を磨いた背景にあります。

インディアンジュエリーの代表的な技術の例

  • スタンプワーク(打刻模様)
     → 鉄製のポンチで模様を一打一打刻む技法。
  • インレイ技法(石のはめ込み)
     → ターコイズなどの天然石を銀の枠に精密にはめ込むデザイン。
  • キャスティング技法(鋳造)
     → 鉄や砂の型に溶かした銀を流し込む重厚感ある造形。

こうした技法は、それぞれの部族や作家によって微妙に異なり、まさに「部族を語る工芸」とも言えるほど個性的です。

 

作品例にみる“文化”のちから

  • ナバホ族:大ぶりなターコイズを大胆に用いたデザインが多く、自然とのつながりを強く意識した作品が特徴。
  • ズニ族:細やかなインレイ細工が主流。宝石をモザイク状に並べて動物や神話のモチーフを表現。
  • ホピ族:独自のオーバーレイ技法(銀板の重ね彫り)で抽象的なシンボルを浮かび上がらせる。

これらはすべて単なるファッションアイテムではなく「それぞれの文化の象徴」であると言っても過言ではありません。

 

迫害の中で生きるために作った芸術

実はインディアンジュエリーは、伝統工芸として始まったのではありません。

強制移住や居留地政策により土地を追われた先住民たちが、「新天地」で生き延びるために限られた資源を用いて生み出した「生活の技術」だったのです。

つまり、スペイン系や現在のアメリカ人(元イギリス人)が入植してきてから生まれた文化なのです。

 

「侵略が生んだ美」という皮肉

インディアンジュエリーはその美しさと技巧で世界中に愛されていますが、その誕生の根底には「迫害」と「生存のための転換」があります。

以下のような歴史的経緯が背景にあります。

  • スペイン、メキシコ、アメリカによる段階的な侵略
  • インディアン移住法(1830年)による強制的な土地収奪
  • 「涙の道」:数千人が死亡した移動経路
  • 居留地での自給自足の強制と物資制限
  • 迫害の中で銀と石を使って作り始めた装飾品こそがインディアンジュエリー

つまりインディアンジュエリーは、征服者がもたらした素材(銀)と、抑圧された生活環境の中で編み出された生存戦略の融合物です。

 

「美は常に平和な環境から生まれるわけではない」という言葉をどこかで見たことがありますが、迫害が生み出したインディアンジュエリーはその代表的な存在と言えます。

居留地へ押し込まれ言語・教育から文化が破壊され失われていく自分達のアイデンティティを、侵略してきた文化を融合しながらも独自の芸術に昇華していく――その典型とも言えるのがインディアンジュエリーです。

 

スペイン人・アメリカ人の入植前:先住民の装飾文化

  • 素材:羽根、動物の歯・骨、熊の爪、貝殻(特に貝のビーズ)、石、木の根や植物繊維
  • 技法:編み込み・通し穴・装着による身体装飾(イヤリング・ネックレス・頭飾り)
  • 象徴性:部族のアイデンティティ、霊的な意味、戦士の証など

つまり、もともと「身につける文化=装飾文化」は非常に豊かだったが、「金属」は素材として使われていなかったという事実があります。

 

勘違いのないように書いておくと、アメリカの先住民族に金属を使う文化がなかったわけではなく、銅を矢じりや釣り針に使うなど使用していたのは確かなので金属を加工して利用する文化はあったようです。

これは、メキシコ方面で金属工芸が盛んだったのでそれが伝播したのではないかと言われています。

しかし部族ごとにいろいろな地域に離れて暮らしてくるので、どの程度技術が伝わっていたかというのは居住地域によって違いがあります。

要するに、この金属を加工して道具として使うという文化があったうえで装飾には用いる文化がなかったという事が、インディアンジュエリーが古来からのものではないという証明になります。

 

スペイン入植以後:銀・金属の伝来

  • 16世紀以降:スペイン人がラテンアメリカ経由で金・銀の文化を持ち込み、キリスト教布教の一環として銀製品や道具を配布
  • ナバホ族とメキシコ系銀細工職人との接触:ナバホ族は1860年代以降、銀細工を学ぶようになる

最初に銀加工を始めたとされるナバホ族の人物「アツィシ・スリチ」(Atsidi Sani)は、スペイン・メキシコ系の鍛冶技術を習得した人物とされています。

 

銀細工の拡大:迫害下の生活手段へ

  • 1860〜80年代:ナバホ族がアメリカ軍に征服され、居留地に押し込まれる
    → この時期にジュエリー制作が生活の糧として本格化(観光客や兵士向けの販売)
  • ズニ族・ホピ族にも伝播:ズニはインレイ(石の埋め込み)、ホピはオーバーレイ(銀の重ね彫り)技法を発展

インディアンに対しての迫害がどのようなものだったかに関しては今回は本題ではないので割愛しますが、興味のある方は調べてみてください。

民族の言語を封じて教育から文化を破壊し、とても人が住めないような場所に押し込み移動すら許可制という凄まじい迫害です。

これらの迫害に関して、部分的にですがゲームの「レッド・デッド・リデンプション2」でも大いに描かれています。

また1970年にアメリカで製作された映画「ソルジャー・ブルー」やダスティン・ホフマン主演の「小さな巨人」でもその凄まじい迫害の様子が描かれています。

日本人をレイシストと呼ぶ人種がどのような迫害を行ってきたかがよくわかります。

なぜこれほどインディアンへの迫害の歴史に関して知ってほしいかというと、その凄惨な状況を知ることで、インディアンジュエリーが生まれたという事がどれほどすごいかという事がより深く理解できるからです。

 

銀が選ばれた理由:実用性と加工性が決定的

加工しやすい

銀は金属の中でも柔らかく、冷間加工(火を使わず打ち叩く)でも成形しやすい金属です

溶解温度も比較的低いため、当時の炉の技術でも溶かして再加工が可能だったこともあり、先住民の技術レベルと非常に相性がよかったという側面があります。

 

流通しやすかった

銀貨や銀製の食器が軍や交易を通じて比較的多く流通しており、それほど高価なものというイメージもありませんでした。(※あくまでイメージ)

特にメキシコ経由のスペインコイン(ピース・オブ・エイト)はアメリカ西南部でも広く出回っていたため、これを溶かして再利用するのが初期の銀細工のスタート地点でした。

 

需要があった(交易品としての価値)

白人開拓民や軍人、観光客が「エキゾチックで部族的な装飾品」を求め、金より安価でありながら「見栄えのする金属」として需要が高まったことが経済的自立を目指す先住民の目的に合致したという点がかなり大きいと言えるでしょう。

特にターコイズと組み合わせると色彩のコントラストが映えるため人気が定着し、現在に至る文化の土壌を生み出しました。

 

銀を「高価な金属だから使った」わけではない

金はより貴重で柔らかいが流通が限られ非常に加工もしづらい面がありましたが、逆に鉄や銅は実用品に使われ、美術品としてのインパクトに欠けたため用いられませんでした。

銀は入手性・加工性・視覚的インパクトのバランスが取れていたため、工芸用として自然に選ばれていったというのが非常に興味深いポイントです。

迫害の中で金属加工を学ぶ先住民が現れ、スタンプワークなどが先住民の文化を絵画的に表すことに適していた点もポイントです。

 

文化的意味は「後から育った」

銀そのものにスピリチュアルな意味があったわけではなく、ジュエリーという形に込められた「模様」や「部族の記憶」に意味が込められ、銀はその「キャンバス」でした。

「先住民族が銀を神聖な金属としていた」と紹介している雑誌が昔ありましたが、ここまで紹介してきた経緯を見ると、そのような表現は明らかに後付けで生まれた考え方・価値観だと言えます。

極端に言ってしまえばプロモーションの一環です。

そもそも銀がなかったので神聖もなにもありません。

強制的とはいえ後から入ってきたものと融和して一つの文化を生み出すという事は、その民族の確固たるアイデンティティを感じさせる偉業と言えるでしょう。

 

生き残るために模索し残り続ける芸術と生命力ともいえる商才

個人的に考えるのは現在におけるマーケティング上の存在感を確立したことは凄いことです。

筆者が高校2年生ぐらいにシルバーアクセサリーは流行り始めました。

その中の一つのカテゴリーとして、インディアンジュエリーはクロムハーツなどストリート系・バイカーファッション系と比べて、もっとマニアックな印象を与えるカテゴリーとして認識されており、金額的にも少しお高めでした。

日本ではバイカーファッションなどのファッションスタイル基準ではなく、ウラハラ(裏原宿)系のアイテムの一つとして紹介され、ヴィジュアル系バンドと親和性の高いアイテムとして認識されていました。

精霊とのつながりや先住民文化として多種多様な模様の紹介などブランディングがしやすいという背景もあったと思うので、最初はマニアックな人気だったものの、ある程度経ってからサブカルブームもあって一気に人気が出たと記憶しています。

当時は部屋をアメカジ系にしてドリームキャッチャーなどの先住民的なアイテムを飾ってアメスピ(煙草)を吸ってるような人が増えましたね。

そんな時代を経て、現代においてフェザーやイーグルなどは、もはやファッションアイテムとして一般的なモチーフと言って過言ではありません。

 

これらのインディアンジュエリーがなぜここまで人気になったのかと言ったら、ひとえに発祥当時のアメリカ先住民の洞察力と商才があればこそでしょう。

当時のインディアンジュエリーは現地の観光客へ販売する土産物程度の存在であり、しかも先住民を見下したスペイン人やアメリカ人はまともな金属を払いませんでした。まともな商取引にもならず、一つ5~20セントで買い取られました。

そんな中でもブランディングを続け、模造品にその地位と価値を脅かされながらも、現在では著作権を確固たるものとする組織も作られ芸術品としての存在は盤石のものとしています。

商売の話をすると俗っぽいと嫌がる人がたまにいますが、私はそのような芸術と商売を切り離した考え方が大嫌いです。

文化を衰退させる明確な要因の一つだと考えています。

なぜなら経済活動と芸術・文化風俗を切り離すのはありえない事であり、その二つのつながりがなければ「伝統工芸」と呼ばれるほどの長い歴史を紡ぐことが不可能だからです。

 

民族としてのアイデンティティを失わず、商売として生き残るために努力を重ね、芸術に昇華されたインディアンジュエリーとはまさに先住民族の誇りの結晶と言えるでしょう。

そんな背景を持ったアイデンティティが発現したデザインだからこそ、現在の我々をも魅了するのでしょう。